『議論の重要性』 2011年01月16日(日)
今年度の年報を準備しつつ、改めて私たちの教会の変化を覚えました。良い意味で、牧師一人ではどうにもならない教会になりつつあります。責任が分担され、議論が積み重ねられ、主の御心を求めて具体的に協働して事が進められるようになってきました。会員総会を前にして、議論の重要性について再確認いたします。
主の御心はある。
主の御心は具体的にあります。そして、示されます。礼拝を重んじつつ、「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことを通して示されます。(ローマ12:1-2)礼拝生活を重ねながら、調べるべきことがあれば調べ、話し合うべき事があれば話し合い、実践すべきことがあれば実践して検討しつつ、主の御心を求めていきます。礼拝がそのすべての営みの土台です。
教会の形態にふさわしく求めなければなりません。
監督制の教会ならば、牧師が最終的に決定します。牧師が間違いのない判断をくだすならば、それで問題はありません。会衆制ならば、多数の意見が決定を導きます。会衆全体の信仰的判断が成熟しているならば、これもまた問題はありません。しかし、長老制の場合は、牧師の決定に任せません。また、会衆の多数決にも導かれません。その理想を言うならば、その立場にも多数にも左右されず、主の御言葉に基づいた判断に近づこうと努力します。それが重要な決断であればあるほど、主の御心を確信して、教会全体が一致することを求めます。
議論が重要です。
求められている議論は、自分の考えによって人を説得するための巧みな議論ではありません。主の御心に近づくための議論です。それゆえ、素朴な疑問や反対意見が、思いがけない有効な展開をもたらすこともあるかもしれません。主の御心を求める時、必ずしも「沈黙は金」ではありません。
「相談しなければ、どんな計画も挫折する。参議(議論に参加する人々)が多ければ、実現する。」(箴言15:22)
議論を積み重ねて、意志の統一を計らずには、何事も力強く実行に踏み出すことはできません。
「計画は助言を得て立てよ。戦争は指揮力を整えて始めよ。」(箴言20:18)