『いかにして我が天職を知らんか』

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『いかにして我が天職を知らんか』

(ある青年婦人に告げし言葉「聖書の研究」
55号「談話」より、1904年・明治37年。内村鑑三。現代語訳)


 天職とは読んで字のとおり天職であります。すなわち天あるいは神が各自に授けたもう職であります。ゆえに、それは天または神を知ることなくして知ることのできるものでないことは明らかであります。多くの人は天をも神をも知ろうとしないままで、しきりに自分の天職を知りたがります。しかし、そういう者に天職の示されないことはわかりきったことです。・・・


 天職はまた、考えて見つかるものではありません。
私は何のためにこの世に遣わされた者であるのか、これはいくら本を読んでも、どんな大先生に従って学問をしても、いかに沈思黙考を尽くしても、見つかるものではありません。多くの人は自分の天職を発見しようとして非常に悩み苦しみます。そのようにして、それが見当たらないと言って、非常に心配します。しかしながら、これは無益な苦悩です。無益の心配であります。天職は、そのような方法によって発見されるべきものではありません。


 天職を発見する方法は、今日、目の前にある義務を忠実に守ることであります。そうすれば、神はだんだんと私たちそれぞれを神が定めたもう天職へと導きたまいます。要するに天職は、それに従事するまでは発見することのできないものに他なりません。あらかじめ天職を見つけておいて、その後でそれに従事しようと思う人は、一生、その天職に入ることのできない人であります。

「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。」(コヘレトの言葉9章10節)

との聖書の教訓こそ、天職に入るための唯一の道であります。私たちは時々刻々と自分たちの天職に向かって導かれて行く者であります。ある日ある時の特別な黙示に接して、目を開かれた者のようにして天職を悟る者ではありません。


 天職は高尚であればあるほど、それを発見するのは困難であります。女官であるとか、政治家であるとかいうような天職は、発見しやすいものであります。しかしながら、貧家の良妻であるとか、または平民の伝道師であるとかいうような高貴な神に似た天職を探し出すのは、非常に困難であります。これには多くの時と経験を必要とします。これは幾度となく私たちに示されたとしても、私たちが斥(しりぞ)ける天職でありまして、私たちがついに感謝してこれを受けるに至るまでには多くの失敗にも陥らなければなりません。しかしながら、神の定めたまいし天職は、とうていこれを私たちが斥(しりぞ)けることはできません。神は御自分がお選びになった者を無理にもその天職に押し込みたまいます。
 私たちはただひたすら神にお仕えしようとの心を持っていれば十分です。そうすれば、遅かれ早かれ必ず私たちを神が定めたもう天職にまで連れて行ってくださいまして、そこで私たちに大きな満足を与え、私たちにこの世に生まれてきた甲斐(かい)があることを十分に悟らせてくださるのです。