「荒野のイスラエルと厳しい礼拝規定」 2010年3月21日
○荒野の厳しさ
荒野のイスラエルは、しばしば不平を言う民として登場します。しかし、信仰的な判定を急がずに彼らのことを考えてみると、その不平はどれも重大な問題に関してでした。それは、
水(出エジプト15:22-24、17:1-3)
食物(出エジプト16:1-3)
安全(民数14:1-4)
に関する不平でした。水や食物がなくなり、安全が失われそうになった時の彼らの不安は、大いに理解できるでしょう。それらの確保に不安を覚えた時には、エジプトから救い出されたことの意味さえわからなくなりました。そんな彼らを、わたしたちは安易に批判したり軽蔑したりできません。
○礼拝の恵み
荒野の生活は、信仰にとって絶えざる試練でした。神礼拝を通して、恵み深い神を知ることがなければ、荒野の生活を喜ぶことはもちろんのこと、平安をもって一日たりとも送ることは難しかったでしょう。そのような中で、神を礼拝する生活にこそ、希望がありました。神礼拝の生活を詳しく規定した律法は、正しく受け取られるなら、荒野のイスラエルにとってまさしく喜びと平安の土台です。自らの知恵や力によって水や食べ物や安全を確保しようとしたなら、不安が尽きることはなかったでしょう。しかし、全生活を挙げて神を礼拝することに打ち込んで、神を信頼することができるなら、喜びと平安が失われることはありません。
そのような理解をもって律法の厳しい礼拝規定を読むなら、律法の詳細な規定も、決して意味のないものであることを感じつつ読み進むことができるでしょう。
○従ってわかる
律法は、わかって従うというよりは、従ってわかるものです。荒野における従順な礼拝生活を通して信仰が養われて、恵み深い神を知ることが期待されていました。そして、そのようにして養われた信仰をもって、荒野の困難を喜んで耐え忍びつつ約束の地へと向かうのです。