『正しく祈れないとしても』 2010年5月2日
「主は逆らう者のいけにえをいとい、正しい人の祈りを喜び迎えられる。」(箴言15:8)
正しい信仰、正しい悔い改め、正しい願い、正しい姿勢。確かに正しく祈ることこそ、いつも目指されていなければならないことです。しかし、祈る人は真実に祈るからこそ、そのようにできないことがあります。偽善者は見せかけの正しさを確保するかもしれません。しかし、、無垢な正しい人ヨブの祈りは、単純に「正しい」と言えるようなものではありませんでした。
「わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。」(ヨブ3:3)
「神よ、わたしの願いをかなえ、望みのとおりにしてください。
神よ、どうかわたしを打ち砕き、御手を下し、滅ぼしてください。」
(ヨブ6:8-9)
これは正しい祈りではないでしょう。
度を越えて、不平不満を祈っています。
そして、ついには神が自分に敵対して挑みかかったのだと訴えることさえしてしまいます。(ヨブ16:9-17)
しかし、神はこのようなヨブの祈りを斥けようとはなさいません。心を注ぎ出して祈るがままにされます。そして、ヨブ自身も神を信じているからこそ、そのように祈っているのです。
「このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、
高い天には、わたしを弁護して下さる方がある。わたしを執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(ヨブ16:19-20)
どんなに正しく祈れないとしても、祈りを絶やさないことが主の御旨です。
「絶えず祈りなさい。」(第一テサロニケ5:17)
自分の子が、正装した時にしか会おうとせず、その場限りのよそ行きの言葉でしか語ろうとしないなら、父は決して喜べないでしょう。すでに「キリストを着ている」のに、何か別の服が必要であるかのように、絶えざる祈りをためらうなら、わたしたちは大変な思い違いをしています。祈りの中で生活し、生活の中で祈りましょう。たとえ、正しく祈れないとしても。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26-27)
どんなに正しく祈れないとしても、祈りをやめない限り、その祈りは失敗ではありません。
「祈りの最大の失敗は祈りをやめることである。」(P・T・フォーサイス)