『ウエストミンスター小教理問答 第99問』 2012年5月20日
問99 神は、私たちに祈祷(きとう)を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。
答 神の御言葉(みことば)全体が、私たちに祈祷(きとう)を教えるのに役立ちます。
しかし、その特別な指導基準は、キリストが弟子たちに教えられた祈祷(きとう)文(ぶん)、いわゆる「主の祈り」です。
「神の御心(みこころ)を求めて祈る」
私たちは、神の御心を求めながら祈ります。
そして、どのような願いや計画が挫折しても、神の御心だけは堅く立つと学びつつ祈ります。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(第一ヨハネ5:14)
「神の御言葉全体が、私たちに祈祷を教えるのに役立ちます」
神の御心は、神の御言葉全体によって示されています。ここに何一つ加えることも減らすこともせずに、神の御言葉に聞きながら祈り続けます。
私たちはかつて、「ものの言えない偶像のもとに連れて行かれて」祈る者でした。(第一コリント12:2)あるいは、主を「ものの言えない偶像」のように扱って、勝手に祈っていたことも、少なくありません。しかし改めて覚えたいのは、私たちには神の御言葉があるということです。それゆえ、私たちの祈りは、神の御言葉によって始まり、神の御心を知ることによって支えられます。
律法を授けられたモーセについては、こう教えられています。
「主は人が友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」(出エジプト33:11)
しかし、今や、こう教えられています。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1-2)
律法を授けられたモーセにについて、
「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせて語られた」
というならば、「御子によって語られた」私たちは、どのような交わりを持つのでしょうか。その豊かさと確かさは、モーセに優ります。
「はっきり言っておく。
あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。
そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23-24)