【今年度の教会目標】 『祈る教会』40 2015 年11月8日
「わたしは金持ちだ。
満ち足りている。
何一つ必要なものはない。」
(黙示録3:17)
黙示録の冒頭に登場する七つの教会の中で、これが最も厳しく叱責されている教会の自己認識です。
様々な迫害と困難の時代に、このように自分たちの姿を見ることができたとするなら、
想像以上に優れた姿をしていたに違いありません。
知識、経験、財政、人材など・・・。
当時は、教会堂もない時代ですから、現代の教会の姿から想像するには限界がありますが、
自信をもつだけの十分な根拠があったはずです。
しかし、「何一つ必要なものはない」と言っているのは主なるキリストではなく、彼ら自身です。
主は、正反対の姿を見ておられます。
「自分が惨めな者、
哀れな者、
貧しい者、
目の見えない者、
裸の者であることが分かっていない。」
(3:17)
彼らに最も欠けているのは祈りです。
そのことに気づくことさえできないほどに、主への信仰から離れています。
主の近くにいるように見えて、主を戸の外に立たせたままです。
また、主の御言葉を聞いているように見えて、
戸の外で何かを語る訪問者の声を聞くように、ぼんやりとしか聞いていません。
主の声を聞いて力づけられて導かれたり、
主に心を注ぎ出して訴えたり願ったりする祈りの生活は、そこにはありません。
実際のところ、主から何かを与えてもらう必要をまったく感じていません。
「わたしは金持ちだ。
満ち足りている。
何一つ必要なものはない。」
主の声を聞かなければなりません。
「悔い改めよ。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
(3:19~20)