『見えないものに目を注ぐ』
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」
(第二コリント4:18)
見えるものは、確かに現実です。
これらを離れて、日々の生活はあり得ません。
見えるものは、ここで語る使徒たちにとって、厳しいものでした。
それらによって
「四方から苦しめられ・・・途方に暮れ・・・虐げられ・・・打ち倒される」
ようなものでした。
(4:8~9)
しかし、彼らが行き詰まることも、失望することも、
見捨てられることも、滅ぼされることもありませんでした。
そして、次のように言うことができました。
「わたしたちは落胆しません。」
(4:16)
彼らが見ているもう一つの現実があります。
「わたしたちは・・・見えないものに目を注ぎます。」
見えないものは「永遠に存続するものです。」
(4:18)
見えるものは、確かに一時的であり、いずれ過ぎ去るように変わっていきますが、
今は圧倒的な仕方で私たちの目と心に入ってきます。
しかし、見えないものは、
それを見えるようにされた人々でさえ、目を注ぐようにしなければ、見失います。
しかも、すぐにはっきりと見えるわけではなく、
盲人がキリストによって目を開かれたときのような有様でしょう。
人が歩いているのを見ながらも、木のようにしか見えませんでした。
再びキリストの両手をその目に置いていただいて、
ようやくはっきりと見えるようになりました。
(マルコ8:23~25)
永遠に存続する神とそのご計画を見るには、
どれほどキリストの癒しと助けを、日々、必要とすることでしょうか。
使徒たちはその心に神の光をいただいて、心の目を開かれた人々です。
しかも、自分たちがただの「土の器」にすぎないことを知って、神の恵みにすがり続けた人々です。
(4:7)
だから、彼らは見えるものに悩みながらも、
それらに圧倒されることなく、「見えないものに目を注ぎます。」
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、
イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」
(4:6)