『負いやすく、軽い』
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」
(マタイ11:30)
主イエスが負っておられた荷が軽いとは、驚きです。
実際、あの十字架の死を前にして、主はこう祈られました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
(26:39)
途方もなく重い荷を負いながら、ここまで歩んで来られたのではないでしょうか。
しかし、祈りを重ねた後、「立て、行こう」と言って、また今までどおりの道を進んで行かれました。
ここに主が負っておられた荷の軽さを見なければなりません。
私たちなら複雑に悩み続けるであろうときに、主は祈ります。
そして、立ち上がります。父なる神にどこまでも信頼すること。
これがキリストの負っておられた荷です。
キリストの弟子たちが負うべき荷も、同じです。
弟子たちに向かって、こう言われました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(16:24)
神を知ると言いながらも、どこまでも信頼することのできる神を知らずに歩んでいた者たちでした。
しかし、キリストを知り、そのような神の救いを知りました。
世の数々の苦しみや悩みはもちろんのこと、死さえも勝利の中に呑み込んでしまう神の救いです。
わたしたちも、日々、キリストの荷の軽さを知りたいと思います。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイ11:29~30)