『ダビデの道、サウルの場所』
「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」
(サムエル上26:25)
サウル王は、自分の地位を脅かすダビデを殺そうとして追い回しました。
そして、ついに彼を殺す絶好の機会が訪れたと思いました。
「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ。」
(23:7)
逃げ場のない町の中に、ダビデが閉じ込められたと思ったからです。
自分の願いや自分のしていることが正しいかどうかは問題ではありません。
自分に都合の良いことが起これば、神が答えてくださったと考えます。
そうでなければ、神の答えがないと思うだけです。
反対に、ダビデもサウル王を殺す機会に恵まれました。
しかし、彼はサウル王を殺しません。
それが神に対して正しいこととは思われなかったからです。
ダビデはサウル王に向かって言います。
「今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、
主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。」
(26:23)
サウル王もダビデの真実を認めて言います。
「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。
お前は活躍し、また、必ず成功する。」
(26:25)
しかし、ダビデが、サウル王の態度の変化に期待をかけることはありません。
ダビデの望みは、神と共にあります。
「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、
主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」
(26:23)
神の助けと救いに望みをかけて、神を求め続けます。
心を変えたように見えるサウル王にはついて行きません。
「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」