『神の業が現れるため』
「本人が罪を犯したからでも、
両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。」
(ヨハネ9:3)
イエスと弟子たちが道を進んでいた時のことです。
生まれつき目の見えない人を見かけました。
弟子たちが、イエスにこう尋ねました。
「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。
本人ですか。 それとも、両親ですか。」
人は、なぜ、このような考え方をしてしまうのでしょうか。
ただでさえ苦しんでいるこの人を、いっそう苦しめるような考え方です。
原因があって、結果があるとでも言いたいのでしょうか。
しかし、主イエスはきっぱりとこう教えてくださいました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。」
人の思いや考えを超えた神のご計画があります。
確かに、イエス・キリストに出会ったこの日から、この目の見えない人の新しい歩みが始まりました。
これからもいろいろなことがあるでしょうが、
どのような境遇の中でも、
共にいてくださる神を知ります。
そして、その神を永遠にほめたたえて生きる希望を強められていくことでしょう。
キリストを知るために、新しい境遇を求める必要はありません。
その人が、今、どのような境遇にあるとしても、
そこからキリストを知り、神を知る歩みは始まります。