『待ち望む人には、だれにでも』
「今や、
義の栄冠を受けるばかりです。
正しい審判者である主が、
かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。
しかし、
わたしだけでなく、
主が来られるのをひたすら待ち望む人には、
だれにでも授けてくださいます。」
(第二テモテ4:8)
今、使徒パウロは、最後の試練の中にいます。多くの信徒たちが彼を見捨てました。
(1:15、4:16)
獄中にいて、最後のときを覚悟しています。
福音のために労苦してきた使徒として、あまりにも寂しい最後です。
しかし、彼の心は、希望に満たされています。
福音のために、いろいろなことが起きていますが、待ち望んでいたことに向かって進んでいるからです。
今や「義の栄冠を受けるばかり」、と確信しています。
それは、再び来られるキリストの日に授けられます。
その日、キリストは正しい審判者として、完全な裁きを行われます。
人の行いはもちろんのこと、人の語ったつまらない言葉まで裁かれます。
キリストの福音を信じずに、裁きの日を待ち望んで歩む人はいません。
彼は、その日に目を注ぎながら、ここまで来ました。
確かに立派に戦い、決められた道を走り通してきました。
しかし、キリストの福音を信じたからです。
同様に、福音を信じて、
主が来られるのをひたすら待ち望む人々ならだれにでも、
義の栄冠が約束されています。
福音のためにいろいろなことがあっても、
「かの日」を待ち望むなら、
慰めがあります。