『神に対して、自分を知る』
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」
(ローマ7:24)
神に対して、自分とは何者かを知る人の言葉です。
自分の熱心や努力によって、
この後、誇れる人間に変わったり、
惨めな人間に戻ったりすることを繰り返したりはしません。
神に対して、何の自信もありません。
しかし、だからといって悲しみ続けません。
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」
(ローマ7:25)
イエス・キリストを通して、神に近づきます。
そのとき、自分の惨めさは少しも妨げになりません。
神に対して自分の惨めさを知る人が、人々に対して惨めなわけではありません。
「わたしにとっては、
あなたがたから裁かれようと、
人間の法廷で裁かれようと、
少しも問題ではありません。
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」
(第一コリント4:3)
このような自信は、その人の心に深く秘められています。
いわゆる高ぶりは、そこにあり続けることができません。
の深いところで、その高ぶりは砕かれ続けます。
「わたしを裁くのは主なのです」。
(第一コリント4:4)
しばしば、人の間で自信を持ち続けることは困難です。
互いに傷つけ合うことも避けられません。
しかし、神に対して自分を知る人々の自信は、
他人も自分も傷つけることのできない深いところにあります。
神の恵みによって砕かれ、神の憐れみによって新たに養い強められます。
神に対して自分を知る人として、人々の間に歩んで参りましょう。