『あくまで祈り続ける』
(カルヴァン「信仰の手引き」25項の要点から)
私たちは、主の祈りにおいて「御心をなさせたまえ」と求める。
この祈りによって、自分の意志を神の御旨に任せきるのである。
この祈りは、神の御意志を自分に従わせようとする私たちの心を手綱のように引き留める。
そして、この祈りの下で、私たちの心は、神への従順に向かって、
その人なりに形づくられていくのである。
神のそのような御旨と統治を受け入れるならば、
あくまで忍耐して祈り続けることへと向かわせていただけるであろう。
また、神の御旨が定めるときまで、
自分の願いが満たされるのを待ち続けることも容易になるであろう。
「あなたの道を主にまかせよ。
信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、
あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせてくださる。」
(詩編37:5~6)
神は、私たちの目に現れてくださらないが、いつも私たちと共にいてくださる。
そして、その祈りに耳を閉ざされることは決してない。
私たちの祈りが神から無視されているように人々から思われることはある。
しかし、神の定めた時が満ちれば、神ははっきりとわからせてくださる。
「主の手が短いというのか。
わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」
(民数記11:23)
あるいは、いくら長く待ち望んでも、
祈りの効果や結実を見ることができないことがあるかもしれない。
しかし、私たちの信仰は、人がその目で見ることのできないものを見る。
そのような信仰があるということが、その効果と結実を保証する。
貧しさの中でも豊かさを、悩みの中でも慰めを保証する。
今、すべてのものが欠けているとしても、
神がご自分の民の期待と忍耐をむなしくすることはあり得ない。
神が私たちを見捨てることは決してないのだ。
神を信じる者はあくまでも忍耐して祈り続ける。
そのような人々は、来るべき日に、聖書に啓示されている通りにすべての良きものを持つ。
信仰によって、今日祈ることのできる神を持つならば、
すべてのものを持つのである。