『福音の明瞭さ』
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、
よく見て、手で触れたものを伝えます。」
(第一ヨハネ1:1)
使徒たちが伝えたキリストは、明瞭です。
彼らが「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触れたもの」だからです。
彼らは、人を知るように、キリストを知りました。
そして、そのように伝えました。
使徒たち以前に、その明瞭さはありませんでした。
「神の御顔」を求めて祈った人々も喜びに満ち足りました。
それは、そのときには十分なことでした。
「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」
(詩編16:11)
しかし、使徒たちのように、
使徒を通して伝えられたキリストにおいて、
たちはあらゆる時に、知るべきほどのことを知ります。
どんなに試されてうなだれても、
いつもこの御方において、神への信頼は息を吹き返します。
この御方こそ、神との交わりの中に私たちを生かし続ける「命の言」だからです。
「命の言について。
――この命は現れました。
御父と共にあったが、
わたしたちに現れたこの永遠の命を、
わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」
(第一ヨハネ1:2)
あらゆるときに、知るべきほどのことを知らせる明瞭さです。
使徒は、そのような明瞭さをもって、
世の終わりまで弟子たちといつも共におられるキリストを伝えました。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、
よく見て、手で触れたものを伝えます。」