『知恵の初め』
「主を畏(おそ)れることは知恵の初め。」
(箴言1:7)
人は、いろいろなものを恐れながら生きているのではないでしょうか。
他の人々のことを恐れることもあります。
あるいは、自分ではどうにもならないことを恐れることもあれば、
どうしても向き合わなければならない事柄の数々を恐れます。
それだけではなく、いろいろと思いめぐらして未来を恐れることもあります。
その対象や理由が何であれ、そのような恐怖は、人の歩みを混乱させます。
「人は恐怖の罠にかかる」と、聖書は教えます。
(箴言29:25)
しかし、「主を畏(おそ)れることは知恵の初め」です。
主なる神を正しく知って、神を正しくおそれることに、様々な恐怖から逃れる道があります。
神をおそれると聞くと、神の厳しい裁きや怒りを想って、
びくびくと恐怖することかと誤解する人もいるかもしれません。
そのような恐怖は、神を正しく恐れることとは違います。
聖書に登場する最初の人であるアダムとエバは、神のことがわからなくなったときに、
そのような恐怖に取りつかれました。
神の足音を聞いただけで恐ろしくなり、隠れた、とあります。
(創世記3:8~10)
神を正しくおそれるとは、神と共に生きることであり、歩むことです。
様々な恐れにとりつかれて、身動きできなくなることもあるかもしれません。
しかし、そのようなとき、改めてこの言葉を思い起こしていただきたいと思います。
「主を畏れることは知恵の初め」
です。