『幸いな悔い改め』
「いかに幸いなことか・・・
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」
(詩編1:1~2)
主の教えを愛する人は、親しく主から諭される人です。
主の諭しを侮辱と受け止めたり、自分の道を邪魔するものと受け止めたりすることはないでしょう。
むしろ、主の教えを求めて、思いめぐらし、祈るでしょう。
そのような人に、主も親しく教え続けてくださるでしょう。
主の教えが、日ごとにその人の心に語りかけます。
そして、その日々の歩みを照らし出します。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」
(詩編119:105)
それゆえ、その人の心の悔い改めは、日々の小さな一歩一歩の中にあります。
たとえ、世の判断からすれば、
愚かしく軽んじられることがあっても、
それ以上に主の声が世に響きわたっていることを聞き分けます。
「知恵は巷に呼ばわり、広場に声をあげる。
雑踏の街角で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける。」
(箴言1:20~21)
その歩む道のすべてにおいて、神が共におられることを新たに見出します。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
(創世記28:16)
幸いな悔い改めが、ここにあります。
「いかに幸いなことか・・・
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」
(1:1~3)