第31問
問31 有効召命とは、何ですか。
答 有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ、私たちの心をキリストを知る知識に明るくし、私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。
「福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。」
救いにふさわしいことを望んで、実際に行うようになるのは、聖霊がわたしたちの内に働いてくださるからです。(フィリピ2:13)
第32問
問32 有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか
答 有効召命されている者は、この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。
「この世で、どんな祝福を分け与えられますか」
自分の罪を悔い改めて、キリストを信じる人々は、この世で大きな祝福にあずかります。パウロが語ったとおりです。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:8)
生きるとはその祝福の中を歩むことであり、その祝福の中でなら死ぬことさえも利益です。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)
「この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、
あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。」
神との関係が、その人にとって緊急にして最大の重要事になるとき、その祝福がどれほど現実的で大きなことであるかもはっきりとするでしょう。福音を聞いて心を打たれた人々は、こう語り出しました。
「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」(使徒2:37)
彼らにとって、神との関係が何よりも重要で緊急の課題となりました。彼らは、神から召されて、来るべき世ばかりでなく、この世でも彼らを生かす現実的な祝福を分け与えられたのです。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)
第33問
問33 義認とは、何ですか。
答 義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受け入れてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され、信仰によってだけ受け取るキリストの義のゆえです。
「義認とは、神の一方的恵みによる決定です。」
神に対して正しくない者を、神御自身が正しいと認めてくださる決定です。人が自分の正しさを信じていられる限りは、無用の決定です。そればかりではなく、愚かな決定とさえ思われるかもしれません。しかし、自分の正しさを挫かれた日には、この決定による他に救いはないことを知ります。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(ローマ3:24-25)
「それはただ、私たちに転嫁され、信仰によってだけ受け取るキリストの義のゆえです。」
人の前での人間は、正しくもあり、悪くもあります。しかし、神に対しては、自分を認めさせるような正しさを誰も持っていません。
「(神への)服従において、この世で可能な最高度に達する人々でも、義務以上にすること、すなわち神の要求以上にすることはとても及びもつかないだけでなく、義務上しなければならぬ多くのことにさえ達しないほどである。」(ウエストミンスター信仰告白16章4節)
聖書は、私たちが持ちうる唯一の義として、十字架につけられたイエス・キリストを指し示します。
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと・・・」(第一コリント15:3)
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(第二コリント5:21)
第34問
問34 子とされることとは、何ですか。
答 子とされることも、神の一方的恵みによる決定です。それによって私たちは、神の子らの数に入れられ、神の子らのあらゆる特権に権利を持つ者になるのです。
「子とされることも、神の一方的恵みによる決定です。」
神に召されてキリストを信じるようになった者は、神の子とされました。これは、私たちの側の実感に基づいて判断されるべきことではありません。神が一方的な恵みによって、そのように決定してくださったのです。そして、その恵みに基づいて生活する時、神の子とされたという実感も湧いてきます。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。
それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(第一ヨハネ3:1)
「それによって私たちは、神の子らの数に入れられ、
神の子らのあらゆる特権に権利を持つ者になるのです。」
神の子とされる特権は、何ものにも代えがたいものです。
しかし、それを知るようになるには、様々な試練をも経験しなくてはならないでしょう。キリストと共に神の栄光を受ける者は、キリストと共に苦しむことをも避けることができません。
「もし子供であれば、相続人でもあります。
神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。
キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:17)
神は、子として取り扱うすべての者を鍛錬されます。そして、その試練を通して、その人を鍛え、多くのことを教えてくださいます。神の子として相続すべきものを受けるようになるのは、試練を通してです。
「神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。
いったい父から鍛えられない子があるでしょうか。
・・・霊の父はわたしたちの益となるように、
御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」(ヘブライ12:4-13)
第35問
問35 聖化とは、何ですか。
答 聖化とは、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちに従って新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。
「聖化とは、神の一方的恵みによる御業です。」
キリストを信じる者は、聖とされ続ける者です。聖なる者の名にふさわしく造り変えられていきます。その過程は、人がキリストを信じた瞬間に始まり、死の瞬間まで生涯にわたって継続されます。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント3:18)
神の一方的恵みによって継続されるこの御業を、聖化と呼びます。
「それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちに従って新しくされ、」
神は、聖化の過程を通して私たちの心と生活のすべてを新しくしようとしておられます。
「だから以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22-24)
「ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。」
聖なる生活を追い求める人々は、神を見ます。(ヘブライ12:14)神を見る生活は、私たちの罪の正体をますます明らかにし、その罪に生きることができないことをますます思い知らせるでしょう。そして、それを知れば知るほど、自分の罪を悲しまざるをえません。その悲しみは私たちをキリストへと正しく導きます。
「だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:24-25)
第36問
問36 この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。
答 この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです。
「神の愛の確信、良心の平和」
神によって義と認められ、子とされ、聖化の恵みにあずかっている人々は、苦難の中でも、ますます神の愛を確信します。そして、苦難によって神の栄光にあずかる希望が消え去るのではなく、いっそう確信するようにされます。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。・・・希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-2、5)
「終わりまで恵みのうちに堅忍すること」
神がイエス・キリストにおいて義と認め、子とし、聖化し続けてくださる人々は、この救いの恵みに最後まで堅い忍耐をもってとどまり、永遠に救われます。キリストははっきりとこう約束なさいました。
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:28)
確かに、神に召された人々はこの世にあっていろいろな試練に悩まねばなりません。そして、自分の頼りなさや不確かさを味わいます。しかし、たとえそうだとしても、
「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(第一ペトロ1:5)
そして、自分の力を過信しているときよりも、むしろ弱さを知ったときにこそ、恵みによって強く歩み始めるのです。
第37問
問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。」
一般的にも、死の時に「眠りにつく」と言われます。確かに聖書も、死について「眠りについた」と表現します。(創世記47:30、列王上2:10)殉教者ステファノも、主イエスに自分の霊をゆだねて「眠りについた」と書かれています。(使徒7:60)しかし、これは彼らの霊魂が無意識の状態に陥ったという意味ではありません。信者の死が「眠りについた」と言われるのは、彼らがこの世の労苦を解かれて休息に入るからです。(黙示録14:13)さらに、それは栄光の目覚めがあるという希望を表現するためです。キリストが死に支配されたままでいることがあり得なかったように(使徒2:24)、キリストに結ばれて死んだ人々も死に支配されたままでいることはあり得ないのです。
「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。
神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、
イエスと一緒に導き出してくださいます。」(第一テサロニケ4:14)
信者の霊魂は、死の後も明瞭な意識を持ち続けています。貧しいラザロはアブラハムのすぐそばに移されました。(ルカ16:22)また、キリストを信じた十字架の犯罪人は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、キリストから約束されました。(ルカ23:43)また、使徒パウロは、この体を「幕屋」にたとえて、こう言いました。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(第二コリント5:1)
神によって備えられた建物に住むとは、この「体を離れて、主のもとに住むこと」を意味しています。(第二コリント5:8)彼らを通して知られるのは、信者の霊魂が死の時にも明瞭な意識を持ち続けて、死の時、直ちにキリストとの栄光の交わりを楽しむようになるということです。主を礼拝する喜びに生きる人々にとって、死は恐ろしいものではなく、人生の重要な通過点であり、キリストとの交わりから言うならば、この世の生よりもいっそう望ましいものでした。
「・・・(信仰によって歩む)わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。・・・そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(第二コリント5:6、8)
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。・・・この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」(フィリピ1:21、23)
第37問−2
問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。
信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
「信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。」
「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)
「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。」(使徒13:36)
これは、聖書が教えるだけでなく、私たちが自分の経験から確認することでもあります。確かに人の体は朽ち果てます。しかし、これが、聖書が教えているすべてのことではありません。それは聖書が教える真理のうち、目に見える部分にすぎません。信仰者は、見えるものではなく、見えないものに目を注がなくてはなりません。キリストと結ばれた信者の体について、こう教えられています。
「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(第二コリント4:16)
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)
土葬と火葬、あるいは死後の体の状態などに目を注いで、聖書の教えを判断すべきではありません。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(第二コリント4:18)
信仰によって永遠に過ぎ去ることのない祝福を見ようと志すなら、見えないものに目を注がなくてはなりません。確かに塵にすぎない私たちの体は、塵に返ります。あの信仰者ダビデの体も朽ち果てました。しかし、神は創造主です。土の塵から人を形づくり、人を生きる者となさった御方です。その御方にとって、私たちの体が塵となったとしても、その御前から私たちの体が消え去ってしまったわけではありません。
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:21)
キリストと結ばれた体は、神の御前から決して捨て去られることはありません。塵に返って朽ち果ててしまったとしても、私たちの体には未来があることを覚えなければなりません。
第38問
問38 信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。
「信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて」
聖書は、信者の復活がいかに栄光に富んだものであるかを教えています。それゆえ、聖書を学ぶ信者は、死の陰を光で覆ってしまうほどに復活の栄光を学び続けなければなりません。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(第一コリント15:54-55)
カルヴァンも綱要の中で次のように語っています。
「死の日と終わりの復活に日を喜ばしく待ち望む者でなければ、キリストの学校において堅実に進歩することはない。・・・聖書は確固たる喜びの論拠を示そうとする時は、いつも我々をこの点に呼び返すことにしている。」(キリスト教綱要第3編9章5節)
わたしたちが今、いかに罪と弱さの中にあるにせよ、復活の栄光を信じるのに何の妨げともなりません。
「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(第一コリント15:44)
「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(第一コリント14:43)
「審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され」
審判の日に、実質的に無罪の者はいません。その日、大勢の人々がキリストに対して自分の行いを誇るでしょうが、そのような人々に対してキリストは言われます。
「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」(マタイ7:23)
しかし、真の信者はだれ一人自分の無罪を主張したりはしないでしょう。ダビデは言います。
「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」(詩編51:5)
パウロも言います。
「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(第一テモテ1:15)
しかし、彼らこそ、神によって公に受け入れられる人々です。彼らに対して、神はこう言われるでしょう。
「忠実な良い僕だ。よくやった。」(マタイ25:23)
彼らが何の罪もなく正しかったからではありません。イエス・キリストのゆえに彼らの罪を赦して、深い憐れみをもって裁いてくださったからです。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(第一テモテ1:15)
第38問−2
問38 信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。
「永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。」
聖書が信者に約束する究極の喜びは、「永遠に、全く神を喜ぶ」ことです。
これこそ完全な祝福です。主が再臨されるとき、既に死んで葬られた信者たちが最初に復活すると教えられています。そして、そのときまだ生きている者たちは、空中で主と出会うために、最初に復活した者たちと一緒に雲に包まれて引き上げられます。
「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(第一テサロニケ4:16)
聖書は、このことについて、人々を説得したり納得させたりするようには語っていません。むしろ、愚かしいと思えるように語っています。この愚かしさは、世が自分の知恵でこの真理を知ることができないようにしています。
主を愛する者たちは、主と共にいることを何よりも熱望していました。
パウロはこう告白します。
「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」(フィリピ1:24)
詩編の信仰者も告白します。
「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。・・・わたしは神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。」(詩編73:26、28)
彼らは皆、試練に悩みながらも忍耐しつつ、
「いつまでも主と共にいることになる」
その時を待ち望んでいました。そのことこそ、神が与えてくださる完全な祝福です。これ以上の幸いも祝福もありません。ますます主の愛を知り、ますます主を愛するのに応じて、その理解も進むことでしょう。
「・・・このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(第一テサロニケ4:17、18)
小教理問答の前半部分
問3 聖書は、おもに何を教えていますか。
答 聖書がおもに教えている事は、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです。
問38で、ウエストミンスター小教理問答の前半部分が終わります。
問4から問38まで、私たちは「人が神について何を信じなければならないか」を学んできました。自分が信じたいことではなく、信じなければならないことを信じるのが私たちの信仰です。問4から問38までで示されたことが、私たちの信じるべきことの大きな道筋です。このことを絶えず参照しながら、聖書を読み続けて参りましょう。そして、私たちの幸いが何であるかを絶えず確認し、ますます確かなものとすることが大切です。すでに実現していることがあります。今、実現しつつあることがあり、これから実現することがあります。信仰によって、それらの見えない事実を確認し、また望むべき事柄をますます確かなものとしながら進んで参りましょう。
カルヴァンは、キリスト教綱要においてこう語っています。
「神を知る知識とは、単に神の存在を知覚するというだけでなく、神を知ることが我々に関わっており、それは神の栄光のために役立ち、最終的には我々の益となるとわきまえることでなければならない。・・・神が万民にとって礼拝され、あがめられねばならない唯一の御方であるというだけでは不十分である。つまり、我々は自らのあがめる神が一切の善の源泉であられ、彼以外の者からは何ごとも求めるべきではないいうことも確信していなければならない。・・・我々は、これら一切のものを彼から期待し、彼に求めることを学び、さらに我々の受けたものを彼に帰し、感謝をささげるのである。」(綱要第1巻2章1節)
すなわち、信仰によって、私たちのすべての幸いが神の内にあるということを知るように聖書を学びます。
そして、どのような時にも神にその身を委ねて歩むのが、私たちの信仰生活です。
第39問
問39 神が人に求めておられる義務は何ですか。
答 神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。
「神が人に求めておられる義務は」
それができるかできないかは別にして、神が人に求めておられる義務に忠実に生きることこそ、神によって造られた人間に最もふさわしいことです。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ人間のすべて。」(コヘレト12:13)
「神の啓示された御意志に服従することです。」
神が人に求めておられる義務は、神の御意志に服従することです。その御意志は、聖書の御言葉を通して、私たちに明らかに示されています。
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22)
神の御意志に服従することは、聖書の御言葉を聞くことから始まります。そして、聞き続けなければなりません。
第39問−2
問39 神が人に求めておられる義務は何ですか。
答 神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。
「神が人に求めておられる義務は」
それができるかできないかは別にして、神が人に求めておられる義務に忠実に生きることこそ、神によって造られた人間に最もふさわしいことです。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ人間のすべて。」(コヘレト12:13)
そして、それこそが幸いなことです。
私たちは、神に服従してこそ幸いであるように造られているのです。アウグスティヌスは、次のように告白します。
「偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その知恵はかりしれない。・・・あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」(アウグスティヌス「告白」1章1節)
しかし、私たちは、アダムとエバの堕落以来、神に従う以外の仕方で幸福になれるかのようにさまよっています。そのような人間にとって、神を正しく知るとは、神に従う幸いを学ぶことでもあります。
神を正しく知る人々は、
「神が一切の善の創始者でありたもうと知っているのであるから、悩みが襲い、窮迫が迫るならば、直ちに神からの助けを期待して、神の砦の内に立ち戻るのである。更に、神の慈しみと憐れみを確信しているのであるから、堅き信頼をもって彼の内に安らぎ、あらゆる逆境の中にあっても、常に神の寛容の内に救いが備えられていることを疑わないのである。」(カルヴァン、キリスト教綱要2章2節)
第40問
問40 神は、人の服従の基準として、何を最初に啓示されましたか。
答 神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。
「神が人の服従のために最初に啓示された基準」
最初の人アダムは、神にかたどって創造されました。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」(創世記1:26)
神に似せて造られた人間にとって、神に従うことは自分自身に従うことでもありました。最初の人にとって、神への服従は努力ではなく極めて自然なものだったでしょう。
「道徳律法」
罪を犯したアダムとエバは、もはや以前のような者たちではありません。主なる神の顔を避けて隠れ、神に言い訳をし、回りくどい仕方で、神に反抗します。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創世記3:12)
女を与えてくださった神が悪いと言わんばかりの物言いです。
しかし、神に似せて造られた人間が、まったくその姿を失ってしまったわけではありません。最初の人アダムの人格に刻まれた道徳律法は、罪によって腐敗した姿で、すべての人間にその痕跡を残しています。
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。」
確かに堕落以前とは比べものにならないほどその要求は不明瞭でゆがんでいるし、また自然には従えません。しかし
「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマ2:15-16)
すなわち、そのような仕方で自分たちの心に「道徳律法」らしき何かが記されていることを示しているのです。