「信仰は旅路であり、終着点ではない」

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「信仰は旅路であり、終着点ではない」 (AW・トウザ―)

 使徒言行録から学び続けた説教も、最後の部分にたどり着きました。改めて最初の教会がキリストから聞き続け、信じ続け、伝え続けていた福音とは何であったのかとの問いを覚えます。以下の一文は、使徒言行録の教会の信仰を簡潔にあらわしたものです。今から50年前の文章です。


 「初代のクリスチャンにとって、回心は終着点ではなく、旅路の始まりであった。そして、ここにこそ、聖書の強調点と私たちのそれとの相違点があるのである。今日、すべては、信じるという最初の行為に依存せしめられている。ある時点で、キリストへの『決心』がなされ、その後はすべてが自動的に進行する。このことははっきりと教えられていることではない。しかし、私たちは、福音宣教において、聖書に示されているような強調をしない結果、不注意にこのような印象をつくり出してしまうのである。・・・回心者を得るためには、私たちは、信仰上のいろいろな困難については控えめに話し、キリストを受け入れた者が味わう心の平安とこの世的な成功を強調せざるをえない。・・・」

 「・・・もし、彼らがキリストのほうに向かうならば、彼を十字架につけたその同じ敵が、彼らをも十字架につけようとするであろう。一つの道を歩むならば、彼らは、ひとりで、希望もなく、苦しむ。もう一つの道を歩むならば、彼らは、キリストと共にしばらくの間苦しむが、その苦しみのさなかにおいても彼の愛と慰めと内からの支えをいただき、苦難の中にあってすら喜ぶことができる。

 これらの初代の信者たちは、自分たちのすべてを失うことにもなりかねない不評判な主義主張を支持していることを、よく承知した上で、キリストの方に方向転換した。彼らはその時以後、彼らの生命と自由を常に危険にさらしながら、人々から憎まれる少数者のグループの一員となることを知っていたのである。

 これは決して根拠のない、美辞麗句ではない。ペンテコステの日以来、まもなくある者は投獄され、多くの者は自分たちの地上の所有物をことごとく失った。少数の者は公然と殺害され、幾百人の者が諸地方に散らされていった。彼らは、自分たちの信仰を拒み、世的な生活に帰るという単純な方法によって、これらすべてを逃れることができたであろう。しかし彼らは、そうすることを断固として拒絶した。

 このように比較してみると、今日のアメリカの福音主義は、第一世紀のそれと同じであろうか。私にはそうでないように思われるのだ。」