第80問
問80 第十戒では、何が求められていますか。
答 第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、
それも、隣人とその全ての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって
満足することです。
*第十戒「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、
しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼっ
てはならない。」
「私たち自身の状態に全く満足すること」
この満足は、救いの恵みの下での訓練を通して習い覚えるべき事柄です。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。
・・・わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13)
ひたすら神を仰いで満ち足りるのです。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)
「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。
神御自身『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない』と言われました。」(ヘブライ13:5)
「隣人とその全ての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足すること」
「正しい愛の気持ち」とは何でしょうか。
パウロは自分の過去を振り返って、まったくそのような愛がなかったことを認めました。(テトス3:3)
しかし、神に認められた義人ヨブは、自分を憎む者の不幸さえも、決して喜びませんでした。
「わたしを憎む者の不幸を喜び、彼が災いに遭うのを見て、わたしがはやし立てたことは、決してない。」(ヨブ31:29)
そのような愛は、救いの恵みに伴って与えられる最高の賜物です。(第一コリント13:4-7)
キリストは、隣人への愛を果たしつつ自分の求めるものを求め続けるように教えてくださいました。そして、その果てに聖霊が与えられると約束なさいました。(マタイ7:12、ルカ11:13)
どうすれば、「隣人とその全ての所有物への正しい愛の気持ちをもって満足すること」ができるでしょうか。
聖霊が答えです。
第80問
問80 第十戒では、何が禁じられていますか。
答 第十戒が禁じている事は、すべて私たち自身の身分に満足せずに、
隣人の幸せをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の
所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せることです。
第十戒
「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、
しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼっ
てはならない。」
「私たち自身の身分に満足せずに」
イスラエルの王アハブは、自分の隣人ナボトの畑を欲しがりました。しかし、ナボトは、どんなに良い条件を出されても、王の申し出に応じませんでした。先祖から受け継いだ土地を守ることは、主の定めだったからです。そのとき、アハブ王は、食事も取らないほどに腹を立てました。(列王上21:4)これが、十戒が禁じている「むさぼり」です。アハブ王はそのむさぼりに身をゆだねて、ナボトを殺し、その土地を手に入れます。預言者エリヤは、彼の罪を責めてこう言いました。
「・・・あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた・・・。」(列王上21:20)
ペルシャの大臣ハマンは王に引き立てられて、同僚の大臣のだれよりも高い地位につきました。王宮にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまづいて敬礼するのが、習わしとなっていました。しかし、ユダヤ人モルデカイだけは、そのようにしませんでした。ハマンにとって、そのようなモルデカイを見るたびに自分の受けている栄誉の「すべてがむなしいものとなる」と思われました。これもまた、自分の分を超えた「むさぼり」です。(エステル5:13)
荒れ野のイスラエルは、その信仰を試されながら旅を続けました。多くの者が不平を言いました。しかし、その不平もまた主の怒りに値する「むさぼり」でした。
「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」(第一コリント10:10)
自分の身分や生活状態に満足しないのは、惨めなことです。「むさぼり」は私たちを惨めにします。しかし、私たちの心はそのような惨めさに気づけないほどに、とらえがたく病んでいると言ってもよいでしょう。しかし、罪の悲惨を知ることは良いことです。律法によってその惨めさを知ったパウロは、キリストによって満ち足りました。(ローマ7:7-8、24、8:17-18)
第81問
問82 神の戒めを完全に守れる人が、だれかいますか。
答 ただの人は、堕落以来、この世では、だれも神の戒めを完全には
守れず、日ごとに思いと言葉と行いによって破っています。
「ただの人は・・・」
神の戒めを完全に守れる人とは、神に対して誇りをもって大胆に近づくことのできる人です。聖書が言葉と事実を尽くして私たちに教えていることは、そのような人はいないということです。
「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。」(コヘレトの言葉7:20)
確かに、人に対しては自分の誇りをたくましくすることもできるでしょうが、神に対してはできません。
「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(ヨハネの手紙第一1:5)
そのような神に対して、
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(ヨハネの手紙第一1:8)
神を正しく知れば知るほど、神に対する人間の誇りは取り除かれます。それが信仰の法則です。(ローマの信徒への手紙3:27)人間の誇りは何であれ、完全な光の中では保ち続けることのできない誇りだからです。
だからといって、神に大胆に近づく道が閉ざされたわけではありません。反対です。むしろ、大胆に近づくように神は招いておられます。
「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(ヨハネの手紙第一1:7)
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのです・・・この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4:14-16)
もし、神の戒めを完全に守れる人がいたなら、誇りをたくましくしながら、永遠に神と共に生きるでしょう。しかし、ただの人が、永遠に神と共に生きられるようにするのが、イエス・キリストの救いです。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
第83問
問83 律法違反の罪は、みな同じ重さですか。
答 ある罪は、それ自体で、またいくつかの加重によって、
他の罪よりも神の目には重罪です。
「いくつかの加重によって」
ある罪を他の罪よりも重罪とする加重とは何でしょうか。ウエストミンスター大教理問答(問151)は、次のように整理しています。(抜粋)
1)犯罪者がどのような人であるかによって、罪は重くなる。
・彼らが年上の人で、いっそう豊かな経験や長所を持つ人である場合
・人々の指導者であり、他の人が手本にすると思われる人である場合
2)被害者がどのような人であるかによって、罪は重くなる。
・神の豊かな慈愛、忍耐、寛容などに対して、また、神礼拝に対して罪
が犯された場合
・キリストとその恵みに対して罪が犯された場合
・聖霊とその証しと働きに対して罪が犯された場合
・上の人、卓越した人、特別に関係や契約のある人に対する場合
・特に弱い兄弟姉妹に対する場合
3)犯罪の性質や特質によって、罪は重くなる。
・律法の明らかな条文に対し、多くの戒めを破り、そのうちに多くの罪
を含む場合
・心の中だけでなく、言葉と行動にほとばしり出て、他人の顔に泥を塗
り、償いの余地を残さない場合
・恵みの手段・あわれみ・さばき・自然の光・良心の確信・公私の訓戒・
教会のけん責(不道徳行為への戒めや処分)・国法による刑罰に対する場合
・熟慮の上、故意に・強引に・無礼に・傲慢に・悪意をもって・ひんぱ
んに・頑迷に・喜んで・継続的に・あるいは悔い改めた後に逆戻りし
て犯される場合
4)時と場所の情況から、罪は重くなる。
・主の日、あるいは他の礼拝の時、その直前・直後、また、このような
誤りの予防策や善後策がとられた後、の場合
・公に、あるいは他人のいる前で犯され、それによって人々がそそのか
されたり、汚されたりするかもしれない場合
第84問
問84 罪は、みな、何に相当しますか。
答 罪は、みな、この世でも来るべき世でも、神の怒りとのろいに相当します。
「神の怒りとのろい」
人間を創造された神の愛を知らずに、罪はわかりません。
「神の怒りとのろい」と聞くと、神が人間を脅しているかのように感じる人々もいるかもしれませんが、とんでもない思い違いです。
神が人間を創造されました。人間だけが神に似たものとして創造されました。
人間は、神の御手によって造られた傑作です。人間を創造した後、
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と書かれています。(創世記1:31)
その傑作を台無しにする罪に対して、神が怒り、それをのろうことは不当なことでしょうか。私たちが罪を犯す時、神の御心は苦しまないでしょうか。私たちは冷たく怒る神を想像すべきではありません。預言者たちの嘆きや喜びは、神の御心にその源を持っています。
「・・・わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・へレスのために竪琴のように嘆く。」(イザヤ16:11)
「わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
わたしは黙していられない。」(エレミヤ4:19)
「あなたの唇が公正に語れば、わたしのはらわたは喜び躍る。」(箴言23:16)
人の罪に怒りのろいながらも、あくまで人間を愛して救おうとされたとするならば、・・・そこに愛があります。
神の愛を知り、「神の怒りとのろい」を知って、さらにその愛を知り、罪を避けることがどれほど大切なことであるかをますますわきまえましょう。
「毎朝、神によって造られたということを思い起こしながら一日を始めよう。
それこそ、罪を避けることがいかに大切かを知る第一歩である。
私たちが背くなら、父なる神の御心は歯ぎしりするほどに踏みにじられるのである。」(A・カイパー)
第85問
問85 罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいを免れるために、神は、私たちに何を求めておられますか。
答 罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神が私たちに求めておられる事は、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられるすべての外的手段を、忠実に用いて、イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改めをすることです。
「すべての外的手段を、忠実に用いて」
外的手段は、御言葉、礼典(洗礼、聖餐)、祈りの三つです。
神は、それらの手段を用いて、私たちにキリストのあがないの祝福を伝えてくださいます。それゆえ、私たちもその手段を「忠実に用いて、イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改め」をするのです。わざわざ「外的手段」と特定するのは、聖霊の内的なお働きと区別するためです。聖霊の内的なお働きこそ、私たちの救いにとって決定的なものですが、聖霊は通常、外的な手段を通してお働きになります。外的な手段を軽んじて、おろそかにするのが、「神秘主義」です。確かに、救いは神秘ですが、救いの外的手段を無視した「神秘主義」は聖書に反するものであり、霊的に危険です。救いの外的手段を無視した「神秘主義」は、神を求める正しい動機から始まったとしても、神を無視して進む危険に満ちています。
聖書は、外的手段を忠実に用いるように徹底的に教えます。
私たちは、外的手段を用いて働かれる聖霊の神秘をこそ求めなければなりません。
「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」(箴言2:1-5)
外的手段を忠実に用いるのは、とても骨が折れ、忍耐が必要なことかもしれません。しかし、主はそのような手段を用いて救いを受け取るようにお定めになりました。主に対して功績を積むためではありません。反対にそのようにして主の力強い御手の下にへりくだり、聖霊の恵みに謙虚に信頼して、救いの恵みをただ恵みの名にふさわしく受け取るためです。
第86問
問86 イエス・キリストへの信仰とは、何ですか。
答 イエス・キリストへの信仰とは、救いの恵みです。それによって私たちは、救いのために、福音において提供されているままにキリストのみを受け入れ、彼にのみ寄り頼むのです。
「救いの恵みです」
ウエストミンスター信仰告白第14章「救いに導く信仰について」が、ここで扱われている内容の解説となっています。
凝縮された堅い文章なので、取っつきにくいと思いますが、ゆっくりと読み返して味わってみてください。
そうすれば、見事な簡潔さをもって聖書の真理を示していることに気づかれるでしょう。
1)選ばれた者が、それによって、自分が救われるように信じることができる信仰の恵みは、彼の心の中で働くキリストの御霊のみわざであって、通常、御言葉の宣教によって生み出されるものであり、御言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増進され、強化される。
2)この信仰によって、キリスト者は、御言葉において語られる神ご自身の権威のゆえに、そこに啓示されてあるすべての事柄を真実であると信じ、そのそれぞれの章句が含んでいる事柄に応じて異なって行動する。すなわち、命令には従い、威嚇にはおののき、この世の命と後の世の命への約束は信じる。しかし、救いに導く信仰のおもな行為は、義認と聖化と永遠の命のために、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである。
3)この信仰は、程度に強弱の相違があって、しばしば、またいろいろと攻め込まれたり、弱くされることもあるが、勝利を得、多くの場合、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者であるキリストによって、全き確信に至るまで成長するものである。
第87問
問87 命に至る悔い改めとは、何ですか。
答 命に至る悔い改めも、救いの恵みです。それによって罪人は、自分の罪をほんとうに自覚し、キリストにある神の憐みを理解して、自分の罪を嘆き憎みつつ、罪から神へと立ち帰り、新しい服従をはっきりと目差し努力するようになるのです。
「命に至る悔い改めも、救いの恵みです」
ただ罪を憎んだり反省したりするのは、「命に至る悔い改め」ではありません。偽善者でも、そのようなことをするのです。(ルカ18:11-12)
また、「命に至る悔い改め」は、罪のゆるしを獲得する原因となったり、罪を償うものとなったりするかのように誤解されてはなりません。確かに悔い改めなしに罪のゆるしを期待することはできず、すべての罪人に必要なものです。しかし、それはあくまでキリストを通して与えられる救いの恵みです。エルサレム教会は、異邦人が洗礼に導かれたというペトロの報告を聞いた時、こう言いました。
「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ。」(使徒11:18)
「それによって罪人は、自分の罪をほんとうに自覚し、キリストにある憐みを理解して」
自分の罪をほんとうに自覚した人々は、自分たちがキリストを十字架につけて殺したと理解しました。
「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主としメシアとなさったのです。」(使徒2:36)
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。」(イザヤ53:5)
このような自覚や理解は、人の心から自然に生じるものではありません。救いの恵みです。
「自分の罪を嘆き憎みつつ」
「命に至る悔い改め」は、どんな小さな罪をも嘆き憎むように、わたしたちを導きます。しかし同時に、どんな大きな罪をもゆるす神の憐みを知るようにも導くのです。
「永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない。」(ウエストミンスター信仰告白15章4節)
第88問
問88 キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な普通の手段とは、何ですか。
答 キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な普通の手段とは、キリストの規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。
このすべてが、選民にとって救いのために有効とされます。
「用いられる外的な普通の手段」
外的手段は、御言葉、礼典(洗礼、聖餐)、祈りの三つです。
神は、それらの手段を用いて、私たちにキリストのあがないの祝福を伝えてくださいます。それゆえ、私たちもその手段を「忠実に用いて、イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改め」をするのです。わざわざ「外的手段」と特定するのは、聖霊の内的なお働きと区別するためです。聖霊の内的なお働きこそ、私たちの救いにとって決定的なものですが、聖霊は通常、外的な手段を通してお働きになります。外的な手段を軽んじて、おろそかにするのが、「神秘主義」です。確かに、救いは神秘ですが、救いの外的手段を無視した「神秘主義」は聖書に反するものであり、霊的に危険です。救いの外的手段を無視した「神秘主義」は、神を求める正しい動機から始まったとしても、神を無視して進む危険に満ちています。
聖書は、外的手段を忠実に用いるように徹底的に教えます。私たちは、外的手段を用いて働かれる聖霊の神秘をこそ求めなければなりません。
「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」(箴言2:1-5)
外的手段を忠実に用いるのは、とても骨が折れ、忍耐が必要なことかもしれません。
しかし、主はそのような手段を用いて救いを受け取るようにお定めになりました。主に対して功績を積むためではありません。反対にそのようにして主の力強い御手の下にへりくだり、聖霊の恵みに謙虚に信頼して、救いの恵みをただ恵みの名にふさわしく受け取るためです。(問85の解説内容・再録)
第89問
問89 御言葉は、どのようにして救いに有効とされますか。
答 神の御霊が、御言葉を読むこと、特に説教を、罪人に罪を自覚させて
回心させるため、また信仰によってきよめと慰めのうちに救いに至る
まで建て上げるために、有効な手段とされます。
「神の御霊が・・・有効な手段とされます。」
神の御霊(聖霊)のお働きが、決定的なものです。このことは、福音宣教において、人がどこまでも謙遜でなければならないことを教えます。
「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」(ローマ10:15)
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)
また、そのことは福音宣教に尽きる事のない慰めと希望を与えてくれます。人の働きに限界を感じるときにも、それが福音宣教の限界ではありません。聖霊が働かれるとき、どんなに頑固な人々も罪を自覚して悔い改めるのです。また、聖霊が働かれるとき、どんなに弱い人々も強くされます。
「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(第一コリント12:3)
確かに
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。」(第一コリント2:14)
しかし、聖霊が理解させてくださいます。
「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(第一コリント2:12)
「御言葉を読むこと、特に説教を」
聖霊のお働きの下で、「御言葉を読むこと、特に説教」は、常に有効です。
人々はその意味を理解するようになります。(ネヘミヤ8:8)
人々は自分の隠されていた罪を認め、神との出会いを経験します。(第一コリント14:24-25)
人々は新たに造り上げられ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継ぐようになります。(使徒20:32)
忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるようになります。(ローマ15:4)
どのような善い業にも十分に備えられます。(第二テモテ3:15-17)