第90問
問89 御言葉が救いに有効となるには、御言葉をどのように読み、
また聞かなければなりませんか。
答 御言葉が救いに有効となるには、私たちは、勤勉、準備、祈祷をもってこれに傾聴し、信仰と愛をもって受け入れ、私たちの心のうちに蓄え、私たちの生活の中で実践しなければなりません。
「御言葉が救いに有効となるには」
人間の努力が求められていますが、その努力によって有効となるか否かが決まるわけではありません。
喜んで自分の努力の足りなさを認めて、励み続けましょう。
しかし、主の御名を呼び求めつつ、そうしましょう。
☆「勤勉・・・をもってこれに傾聴し」
「わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。」(箴言8:34)
☆「準備・・・をもって傾聴し」
「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで救われるようになるためです。」(第一ペトロ2:1-2)
☆「祈祷をもってこれに傾聴し」
「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に目を注ぎます。」(詩編119:18)
☆「信仰と愛をもって受け入れ」
「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブライ4:2)
☆「私たちの心のうちに蓄え」
「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように。」(詩編119:11)
☆「私たちの生活の中で実践しなければなりません。」
「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8:15)
「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人はその行いによって幸せになります。」(ヤコブ1:25)
第91問
問91 礼典は、どのようにして救いの有効な手段となるのですか。
答 礼典が救いの有効な手段となるのは、礼典そのものや礼典執行者の中にあるどのような力によるのでもありません。ただ、キリストが祝福してくださることと、信仰によって礼典を受ける人々にキリストの御霊が働いてくださることによるのです。
「礼典」
新約の礼典は、洗礼と聖餐(主の晩餐)です。
それだけが、福音のうちにわたしたちの主キリストが命じられた礼典であり、聖書的根拠を持っています。(マタイ28:19-20、第一コリント11:23-26)
「礼典そのものや礼典執行者の中にあるどのような力によるのでもない。」
礼典の内容は、キリストご自身です。
キリストへの信仰なしには、礼典は何の役にも立ちません。洗礼が自動的に信仰を生み出して、救いにあずからせることはありません。聖餐が自動的に信仰を養うものでもありません。礼典は、信仰による以外に、そのもろもろの祝福を与えることができないのです。それゆえ、信仰によらずに聖餐にあずかる人々は、次のように警告されています。
「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(第一コリント11:29)
また、信仰を伴わない礼典は、礼典の名に値しないものとなっています。それは、
「肉に施された外見上の割礼」が割礼でないのと同じです。(ローマ2:28-29)
また、礼典の有効性は、人間から出るものではありません。パウロははっきりと教えます。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(第一コリント3:6-7)
礼典が救いの有効な手段となるのは、
「ただ、キリストが祝福してくださることと、信仰によって礼典を受ける人々にキリストの御霊が働いてくださることによるのです。」
人は水で洗礼を授けます。
それが主によって命じられたことです。
しかし、キリストは聖霊のお働きを通して洗礼をお授けになります。
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11)
そして、救いのすべての祝福へと導き入れてくださるのです。
「一つの霊によってわたしたちは、・・・皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(第一コリント12:13)
第92、93問
問92 礼典とは、何ですか。
答 礼典とは、キリストが制定されたきよい規定です。そこでは、キリストと新しい契約の祝福とが、感覚的なしるしによって信者たちに示され、証印され、当てはめられるのです。
問93 新約の礼典は、どれですか。
答 新約の礼典は、洗礼と主の晩餐です。
「礼典とは、キリストが制定されたきよい規定です。」
新約の礼典は、洗礼と聖餐(主の晩餐)です。それだけが、福音のうちにわたしたちの主キリストが命じられた礼典であり、聖書的根拠を持っています。(マタイ28:19-20、第一コリント11:23-26)
「そこでは、キリストと新しい契約の祝福とが、感覚的なしるしによって信者たちに示され、証印され、当てはめられるのです。」
キリストの御言葉は真実です。
もちろんキリストによって成就された新しい契約も真実です。そこにおいて明示されている祝福は、ことごとく信頼するに足るものです。しかし、それは感覚的に確認できるものではありません。たとえば、キリストが「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた御言葉を、私たちはこの目でキリストを見る事ができなくても信じます。見えないものに目を注ぐようにして信じるのです。その意味で、使徒が
「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」と言ったように、キリストを経験して、喜ぶことはできません。(第一ヨハネ1:1)
しかし、まったく感覚的に確認できないわけではありません。主は、礼典によって、見えない祝福を感覚的に私たちにはっきりと示し、私たちの経験の中に消すことのできない証として刻み込み、日々の生活の中で思い起こすことができるように当てはめてくださったのです。それは、もし信仰によって正しく受けるならば、キリストの同行者であった使徒たちの経験に劣らないと言ってもよいでしょう。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
洗礼の水を受けたのは、真実な主の御命令と御約束によるものです。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19-20)
聖餐を飲み食いするとき、主の愛を味わうことなしに飲み食いすることがあってはならないでしょう。
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。・・・この杯は、わたしの血によって立てる新しい契約である。」(第一コリント11:23-29)
第94問
問94 洗礼とは何ですか。
答 洗礼とは、ひとつの礼典です。そのとき、父と子と聖霊の御名(みな)によって水で洗うことが、私たちがキリストにつぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになると約束することを、表し証印するのです。
「洗礼とは、ひとつの礼典です。」
洗礼の行為自体は、とても簡単で見栄え少ない仕方で執行されます。
しかし、その礼典を通して、神の恵みの契約が、整えられた旧約の儀式よりもいっそう十分明確に、霊的効力をもって提示されているのです。(参照:ウエストミンスター信仰告白7:6)
「つぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになると約束することを表し、証印するのです。」
私たちが受けた洗礼が真実なものであるならば、それが表している内容は、「新しい命」です。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)
だから、そのような人にとって、すべては新しくなったのです。確かに、今なお罪との戦いがあり、愚かさがあり、弱さがあるでしょうが、それが何でしょう。神の御前では「新しい命」を生きる者とされたのであり、「キリストを着ている」者なのです。(ガラテヤ3:27)
独り子キリストを愛する父なる神の愛、父を愛する御子の愛。
キリストを着た者として、その愛の中にいるのです。
その計り知れない罪と愚かさと弱さとにかかわらず・・・。
第95問
問95 洗礼は、だれに執行されるのですか。
答 洗礼は、可(か)見(けん)的(てき)教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従とを告白するまでは、だれにも執行してはなりません。しかし、可(か)見(けん)的(てき)教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければなりません。
「可見的教会」
ウエストミンスター信仰告白は、教会について大きな二つの概念を用いて、何とか教会の真実の姿を提示しようとしています。一つは「可見的教会(見える教会)」です。福音への信仰を告白するすべての人々と、その子供たちが、その教会の会員です。それは地域や教派に限定されません。私たちが、一般に「教会」と呼んでいるのが、この可見的教会です。もう一つは、「不可見的教会(見えない教会)」です。その会員は、過去、現在、未来にわたって、真実に福音を信じる者として、キリストの下に集められたすべての人々から成る教会です。これこそ、神の国と同一の教会です。
「キリストへの信仰と服従を告白するまでは」
キリストへの信仰と服従を告白する人に、洗礼を授けます。
その告白がからし種のような始まりに過ぎないとしても、その告白が真実なものであると確認するまでは、洗礼を授けることはできません。使徒たちは、信仰を告白した人々に洗礼を授けました。(使徒2:37-38、8:36-37)その反対ではありません。洗礼によって信仰がもたらされるかのように洗礼を受けるまでは救いの恵みにあずかることができないかのように洗礼を用いることがあってはなりません。
「可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければなりません。」
可見的教会の会員の幼児は、教会の内にいるのであり、教会の一員です。旧約において、主の民は大人も子供も割礼という仕方で契約のしるしをその身に帯びていました。(創世記17:10)そして、今、新しい契約の下で、わたしたちは洗礼というしるしを身に帯びています。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:11-12)
使徒は、信仰と服従を告白する者に洗礼を受けるように命じた後、こう勧めました。
「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39)
第96問
問96 主の晩餐とは何ですか。
答 主の晩餐も、ひとつの礼典です。そのとき、キリストの指定にしたがって、パンとぶどう酒を与え、また受けることによって、キリストの死が示されます。また、ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方でではなく信仰によって、キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ恵みのうちに成長するのです。
「キリストの死が示されます。」
主の晩餐のパンとぶどう酒によって、
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」が示されます。(第一コリント15:4)
その死は、神のことを思わなければ、キリストにふさわしいものとは思われない死でした。(マタイ16:21-23)しかし、それこそキリストにふさわしい死でした。
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ24:26)
それは、新しい契約の成就です。
「この杯は、わたしの血で立てられる新しい契約である。」(第一コリント11:25)
「イエスは、・・・『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30)
新しい契約は、神との新たな交わりの中に多くの人々を生かします。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。・・・わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:31-34)
「ふさわしい陪餐者が、・・・信仰によって・・・霊的に養われ恵みのうちに成長するのです。」
「ふさわしい陪餐者」とは、自分の罪のためにキリストが死なれたことを心から受け入れる人です。
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(第一ヨハネ1:8)
神に知られているように、自らも自分の罪を知って、イエス・キリストの死を自分のためであると受け入れるならば、
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(第一ヨハネ1:7)
そして、そのような赦しに基づく交わりのうちに、霊的に養われ恵みのうちに成長するのです。
第97問
問97 主の晩餐をふさわしく受けるには、何が求められていますか。
答 主の晩餐にふさわしく参加したい人には、次の事が求められています。すなわち、主の御体(みからだ)をわきまえる自分の知識・キリストを糧(かて)とする自分の信仰・自分の悔い改めと愛と新しい服従について自己吟味することです。それはふさわしくないままで来て、その飲み食(く)いによって自分にさばきを招くといけないからです。
「主の御体をわきまえる自分の知識」
その知識の第一は、自分のためにキリストの体が裂かれて与えられ、その血が流されたと、わきまえることです。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。」(第一コリント11:24)
「キリストを糧とする自分の信仰」
自分によってではなく、キリストによって生きる信仰です。聖餐の杯とパンにあずかる人々は、キリストの血と体にあずかっています。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」(第一コリント10:16)
そして、そのような人々の内には、キリストが生きておられます。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことがわからないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」(第二コリント13:5)
実際、このことは主イエスが、約束しておられたことです。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14:19)
パウロ自身もまた、信仰によってこの恵みにあずかって、次のように告白しました。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)
キリストを糧とする信仰が、ここにあります。
「自分にさばきを招くといけない」
さばきとは、聖餐にあずかっても、何の霊的な養いにも、キリストの何の祝福にもあずからず、ただわずかばかりのパンとぶどう酒を飲み食いするだけになることです。
「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(第一コリント11:29)
第98問
問98 祈祷とは、何ですか。
答 祈祷とは、神の御意志に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。
「神の御意志に一致する事のために」
やみくもにくどくどと祈るのが、私たちの祈祷ではありません。神を知り、神の御言葉に聞くことが先立たなくてはなりません。そして、神の御意志に一致する事のために祈ります。そして、そのためにこそ「心を注ぎ出して」祈ります。(詩編62:9)そのような祈祷には、確信が伴います。
「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(第一ヨハネ5:14)
「キリストの御名によって」
キリストの御名によって祈る人々は、ただキリストだけを頼みとする信仰によって祈ります。聖なる神に近づくのにまったくふさわしくない罪人である私たちが、ただキリストの御名によって大胆に神に近づいて祈るのです。
「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:24)
「私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげる」
罪を告白し、神のあわれみへの感謝をささげます。すなわち、そのようにして神の恵みにますます大胆にあずかりながら、祈るのです。そのような神との交わりの中で、どのような神を知るでしょうか。私たちの主は、私たちが願うよりもはるかに多くのことを、私たちの願いをはるかに越えて豊かに深く広く、私たちのために御配慮なさり、成し遂げてくださる御方です。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:8)
そのようにして、神の御意志への信頼を深めながら、神の御意志に一致する事のために・・・私たちの願いをささげることが、私たちの祈祷です。
第99問
問99 神は、私たちに祈祷を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。
答 神の御言葉全体が、私たちに祈祷を教えるのに役立ちます。しかし、その特別な指導基準は、キリストが弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる「主の祈り」です。
「神の御心を求めて祈る」
神の御心を知ろうともせずに祈るのは、空を打つような祈祷です。私たちの祈祷が、そのようなむなしい労苦であってはなりません。私たちの祈祷は、神の御心を目標として、忍耐と謙遜の限りを尽くして、あきらめることなくささげられ続けるものでなくてはなりません。そして、そのような祈祷は、
「神に聞き入れられている」
という確信を持つようになるでしょう。これこそ、神の御心を求めて祈り続ける者たちだけが知る喜びです。
「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(第一ヨハネ5:14)
「神の御言葉全体が、私たちに祈祷を教えるのに役立ちます」
神の御心は、神の御言葉全体によって示されています。ここに何一つ加えることも、減らすこともあってはなりません。このことは、ただひたすら主の御心を求めて、あくまでも忍耐強く謙遜の限りを尽くして、祈り続けるときには、容易に了解されるのではないでしょうか。そこでしか、主との確かな交わりを見出すことができないからです。私たちはかつて、
「ものの言えない偶像のもとに連れて行かれて」
祈る者でした。(第一コリント12:2)あるいは、主を「ものの言えない偶像」のように扱って、勝手に祈っていたことも、少なくありません。しかし改めて覚えたいのは、私たちには神の御言葉があるということです。
神の御言葉を授けていただいたモーセについては、こう教えられています。
「主は人が友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」(出エジプト33:11)
確かにモーセに授けられた御言葉は、神の御心を親しく語り告げるものでしたが、その言葉数は少なく、なお多くのことが語られなければなりませんでした。しかし、今や、こう教えられています。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1-2)
私たちに与えられた神の御言葉は、モーセに勝るとも劣りません。主は人が友と語るように、顔と顔を合わせて、私たちとも語ろうとしておられます。